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【銀世界】 「真田、おはよう」 ふたりの間には何もなく、シーツの波の向こうで幸村が笑っていた。 「……おはよう」 いつもと同じように、目覚まし時計の代わにタイマーのセットされたコンポから、朝の音楽が聞こえてくる。 「今日は冷えるな」 真田は掛け布団を引き上げた。 布団から出てゆく自分の為ではなく、横たわっている幸村の為に。 「それに暗い」 スリッパを履いてベッドから降りると、窓辺に寄って遮光カーテンを開けた。南東向きの一番陽当たりのいい部屋なのに、朝の光は厚い雲に被われていて届かない。 ベッドの中で寝返りをうって、窓側を向いた幸村が同じように空を見ていた。 「少し部屋の温度を温かく設定していく」 薄いカーテンだけを閉め、エアコンの温度を調節して部屋を出た。 階段を降りると、キッチンがある。 使う人間の性格からか、それとも使う頻度からなのか、殆ど汚れていない。 真田は自分の朝食の為にトースターに食パンを入れ、フライパンでベーコンと卵を焼き、冷蔵庫にあったレタスの葉を1枚むしって千切って、それらを適当に大皿に乗せた。 フライパンがジュウジュウと油の音をたてている頃、電子レンジの中ではターンテーブルに乗せられて回っているフリーザーパックがあった。中身は野菜のスープだ。細かく切った野菜をあっさりと味付けし、出来上がったら冷ましてから1食分ずつ小分けして冷凍してしまい、食事ごとに解凍する。 丁度よくあたたまったそれを器に盛り、用意ができると自分の食事の皿とスプーンとフォークと、軽くあたためたミルクの入ったマグカップをトレーに乗せて階段を昇り、部屋に戻った。 幸村はベッドの中で座ったまま、サイドテーブルでふたりは一緒に食事をする。 真田が大きな食パンを3枚とあと色々を食べている間、幸村はときおりあたたかいミルクを飲みながらゆっくりスープを口に運んでいる。小さなボウルのそれはなかなか減らず、食べ終わるのはいつも真田の方が先だ。 急かすことなく、幸村が食事を終えるのを待つ。 もてあました時間、真田は窓の外に目をやった。空はいよいよ灰色を帯びてきている。 食事を終えたトレイを持って真田はキッチンへ戻り、片付けてからまた部屋に戻った。 ここは寝室兼書斎になっていて、簡単なついたての向こうに大きなデスクと書類や資料の本の詰まった本棚、それからパソコンが置いてある。 出勤の支度で、昨晩ここで作成した書類がきちんとCD-RWに保管されているかと、朝までに何か大事なメールが届いていないかを確認して、パソコンの電源を切った。 「今日は雪になるかもしれないね」 幸村から見える位置にあるクロゼットの前で、真田がネクタイを選んでいると「それがいいな、右のほうの青いやつ」と言って、それから気紛れに夜の天気を予想した。 「車、気をつけて」 「お前がいるのに事故で怪我したりする訳がないだろう」 出掛ける前にもう一度触れあう。幸村は真田の体温を感じて安心し、真田は幸村の体温で様子に異常はないことを安心する。 「もっと」 甘い声でねだられたので、ためらわずにくちづけた。 少しだけミルクの味がした。 「明日は休みだから少し遅くなるかもしれない。何かあったらすぐに連絡しろ」 「いってらっしゃい。早く帰ってきてね」 終業時間を30分過ぎて真田は会社を出た。これくらいの残業はいつものことだ。出世を目指す同期や後輩はまだ遅くまで残っているようだが、そこまで働きづめになる理由は真田にはない。 若い頃----子供の頃夢みた自分とは遠い姿だった。それでも、これが一番自分が望んでいる生き方だということもわかっている。 うるさいのは周りだけだった。どうしてそんな生き方をする。もっと自分のことを考えろ、お前ならずっと上にいけたはずだ----。そう言う彼等は、誰一人として真田の願いなどわかっていないのだ。 会社を出ると、確かに外は雪が激しく降り、辺りはうっすらと雪化粧をはじめていた。 この程度ならチェーンはいらないだろう。速度を落とし、突然の降雪に戸惑う冬化粧に慣れていない街で軽い渋滞にひっかかりながら、帰路を辿る。 帰りに、大型のショッピングセンターに立ち寄った。 今朝、冷凍庫を開けたら作り置きの野菜スープの残りが心配になったので、それの材料をそろえるためだ。もちろん、自分の食事もある。真田は独立してから「特技は料理」と言える程度にキッチンに立っている。もっとも芸術的な料理ではなくあくまでも家庭料理の範囲内であるが。 かぼちゃが安かったので、野菜スープのレパートリーにパンプキンポタージュを追加することにした。 色々な食材を篭一杯に詰め、会計に並んでいる途中でレジ脇の雑誌コーナーで「簡単な家庭料理特集」と「お部屋でリフレッシュ グリーンのある生活」という2冊の雑誌を加えて精算を済ませて買い物を終えた。 買い物をしている数十分の間にも雪は激しく積もってゆく。家まではあと少しだし、車道は車が通っているので積雪にならないので安全運転で帰ることにした。 真田が買った家。 決して無駄遣いをせずこつこつと貯金し、家族に反対され、それでも自分の生き方はこれしかないと決めて買った家。 車がないと不便だし、広くも大きくもない。ただ陽当たりがよくて、庭が広い。一階はキッチン以外使われることはなく、広いリビングはいまではただの応接間だった。昔はこの部屋にも幸村が世話する観葉植物が並び、昔の友人を招いたりする明るい空間だったのだが。 幸村が階段をひとりで降りられなくなってから、この家に住むふたりがもっぱら過ごすのは南と東向きに窓がある寝室兼書斎。あとは2階にあるユニットバスだけだった。 駐車場は屋根つきなので車をしまうのは簡単だったが、この勢いで明日もずっと降り続けるようなら雪かきをしないと明日は家から出られなくなってしまうかもしれない。 荷物を降ろしながらそう思った。明日は早起きをして雪かきをしよう。 2階の南東の部屋は、薄明かりがともっていた。 それが真田にとっての「おかえり」だ。 玄関で、靴や肩についた雪をはらい、買い物袋の中から冷蔵と冷凍のものを手早く片付け、2階へ上がった。 「おかえり」 ドアをあけると、同時に幸村の声がした。 「ただいま。起きていたのか」 「うん。今日はなんだか気分が良くて。曇りから雪が降り始めるのもずっと見ていたし、この前買って来てもらった本も読んでしまったよ」 ショッピングセンターの駐車場と自宅玄関前の少しだったが、雪の中を歩いて湿ったコートはハンガーにかけて、クロゼットにはしまわず外にかけておいた。 「……なんだ」 「さみしい。10時間以上ぶりなのに」 幸村がベッドの上から真田を呼ぶ。 「……ほとんど車だったが、雪だったし、冷たいぞ」 「あったかいよ、真田は」 それは本当だった。 幸村の体温は、寒い外から家に入ったばかりの真田より低い。それでいい。そうでなければ、病院に逆送りしなければならないほどの高熱か、微熱で会話も覚束ないほど朦朧としている様子になってしまうのだから。 「夕飯、少し遅くなるがいいか?」 「うん」 「じゃあ、下にいるから。すぐ戻る」 望んでいたものはなんだったのだろう。 たとえば、今はすっかり遠のいてしまった幼馴染みのように世界の舞台に立ち、喝采を浴びながらテニスコートを駆けることだっただろうか。それとも親の望むように、一流大学の法学部を出て上級の国家試験を通り、官僚としてエリートコースを歩むことだろうか。 そんなものは、とうの昔にばっさりと切り捨てた、未練もないし、もしそういう生き方をしていたらどうなっていただろうと想像することもない。 幸村という人間と、ふたりで生きていこうと決めた時に自分が何をすべきか、何を求められるかはもう決まっていて、それに応えるための努力だけをすればよかったのだから。 一緒に生きよう、そう言ったとき、既に幸村はベッドの上で過ごす人間だった。 「俺と生きていくということは、これがあとどれくらいで全部落ちきるか、毎日一滴一滴を眺めてゆくようなものだよ」 これ、と幸村が指したのは点滴だった。 幸村は病院の白い部屋で、たったひとりでその点滴が落ちる毎日を数えていた。 それでもいいから、一緒になってほしいと、そう頼んだのは真田だ。 幸村の家からは『貴方の迷惑になるのではないですか』と反対され、真田の家からは『親友の為に自分の人生を棒に振るなどとは、とんでもない』と反対された。親友ではありません、ずっと大事にしてきた恋人です、一生一緒に生きていくつもりですと真田は初めてカミングアウトして、それから実家には、一度も戻っていない。 もちろん幸村も断った。 それでも真田は諦めなかった。 ……どんなに断り続けても反対されても、自分を曲げなかった真田に幸村はついてゆくことに決めた。 多分もう残り少ない時間を、彼と生きていける幸せを手にした。 もちろん幸せばかりではない。 幸村は、スーツから着替え鞄を置いて、階下のキッチンで夕食の支度をしている真田を思う。 与えられるばかりで、何も出来ない自分のかなしさ。 自分は何もしていない。ただ、真田がいるこの家で眠り、起き、生きるだけだ。「おはよう」と「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」と「おやすみ」を言うことだけが自分にできることの全てだ。 それでもいいと、それだけでいいと真田は言う、それから、笑う。誰が見ても「それが笑ってる顔?」と言われるけれど、幸村には解る。 こんな生き方しか出来ないのに、真田は飽きることも面倒がってほうり出すこともしなかった。 ただ、大切に、毎日の積み重ねを抱きしめて喜んでいる。それは、まだ学生だった頃に知っていた、激しく強い真田とは程遠い姿だった。 けれど、今の真田も本当の真田で、崩れそうな積み木のような毎日を宝物のように繊細に扱っている彼は、幸村がこのひとと生きていこうと決めた真田だ。 「幸村」 考え事からそのまますこしうつらうつらとしていた幸村は、ドアの開く音と名前を呼ばれて目を醒ました。 「遅くなってすまなまった。夕飯の支度ができたが、運んで来ていいか?」 「うん、ありがとう」 ほどなくして真田が、食事の乗ったトレイを持って部屋へ戻ってきた。 この家では寝室が食堂で居間にもなる。 ここで生きている二人で決めたことだから、外の常識などもうどうでもいいのだ。 「見なれないモノだね」 「かぼちゃでスープを作ってみた」 「……ふふ。真田は将来スープ屋になれるね」 「それもいいかもしれないな」 流動食に近いもの、ほんのすこしの量をやっと口にすることしかできなくなった幸村が、それでも食事の楽しみを忘れないようにあれこれ工夫してバリエーションを増やしていったものばかりだが。 「これは冷めにくいから、舌をやけどしないように気をつけろ」 「うん」 ちいさなスウプボールの中の液体だけが、幸村に栄養を与えられる食物だった。それから、片手で軽くひとにぎりある薬。それで生きている。 いつか終わる、それも、もう手を伸ばせば届いてしまうかもしれない程近くまでその日は近付いている。 だからこそ二人、一日一日を、いとおしむように過ごしてゆく。 おかしいと笑われても、後ろ指をさされても真田は自分の決めた生き方を変えようとはしなかった。 幸村がこの部屋から消えてしまうまで、ふたりの居場所はこの寝室兼食堂兼居間兼書斎だった。世界の常識などどうでもよかった。ただ一緒にいられる場所があればそれでよかった 「真田はそれで幸せなの?」 幸村は、問うたことがある。 一緒になってまだ間もない頃で、まだ幸村は階段を降りて自分の食事のスープをあたためる事くらいなら出来た頃だ。 真田は答えた。 「お前に、幸せじゃないのか疑われていることだけが俺の不幸だ」 しあわせの尺度は人それぞれで、その価値は誰にも決められない。 たとえ大切な人がもうすぐ逝ってしまうとしても、そのひとのために自分の人生の全てを賭けることになってしまったとしても。 それでも真田は手に入れたいと願ったものがあったのだ。 雪の夜。 腕の中で眠る、細くて冷たい身体。 このひとの魂を、最期に見送るのは自分でありたいと。 そしてそれまでの短い時間を、できる限り一緒に過ごし、すこしでも思い出を残していきたいと。 こんなふうに生まれてきた彼に、こんな生き方の中で精一杯できる幸せを与えられる人間になれた時。 そのときはじめて、自分は生まれてきた使命を遂げられるのだ、 と真田は思っている。 窓の外の銀世界は、真田の純白な祈りに似ている。 真幸にころんではじめて書いたSSがこれってどうよ。 back |