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【嘘と紅茶とサヨナラの合図】


「それは傑作だなあ、ああ、おかしかった。あの柳生が渋谷の駅前交差点のド真ん中で女にひっぱたかれてる様子なんか、想像しただけでも3日くらいは思い出し笑いができそうだよ」
 ストローで氷が半分解けて薄まったアイスティーをかきまぜながら精市が笑う。汗をかいたグラスがカラカラと涼しげな音を響かせた。
 弦一郎に渡したいものがあって、しかし仕事の都合上どうしても休日の合わない俺は、弦一郎と一緒に住んでいる精市にそれを託すことにして平日の昼間に待ち合わせをした。
 二人が暮らす家からバスで20分の最寄駅は俺が今住んでいるところからは乗り換え2つと少々不便な場所だったが、体調と機嫌のいい精市がわざわざ駅前まで出てくると指定をしてきたのだから俺はそれを断ることはできなかった。
 待ち合わせの喫茶店はこの駅で落ち合う時にいつも利用しているところで、特別美味ではないが周りを気にせずのんびり長居できるところが気に入っている。俺は弦一郎への品物を最初に預けたあと、好きなだけ精市のおしゃべりにつきあってやることにした。
 といっても小さな家に囲われるように飼われて暮らしている精市のこと、話題といえば限られたもので、最後の方は俺が話し手側にまわることになる訳だ。
 大した話題など本当はないのだけれど、平凡な日常の繰り返しに飽き飽きしている精市からすれば箸が転がってもおかしいくらいに笑う。もっと笑わせてやろうと、俺は記憶の引き出しを必死にあさって、気がついたら昔の仲間の、つい先日破れたばかりの恋話などしている訳だ。
「そもそも女を逆上させるなど、柳生らしからぬ態度が解せないと思ったんだがな。あいつならば殴られる前に恋人を黙らせる気障な言葉の一つや二つ、すぐに思いつきそうなものだが」
「違うよ、蓮二。柳生は仁王みたいな口からでまかせのペテンを使わない。だから喧嘩になるんだ」
「喧嘩、か」
 痴話喧嘩の末、柳生は土曜日の夜8時、渋谷駅前の交差点という衆人環視のまっただ中で二十歳かそこらの彼女に思い切り頬を張り飛ばされた挙げ句に振られるという羞恥プレイを経験することになったわけだ。言い争いをしていたのは約10分だったという。ハチ公前で立ち止まって待ち合わせをしていて、その一部始終を観ていた人間はどんな気分だったのだろう。
「紳士なだけに真摯な態度で接します、か……ぷっ」
「そういえば精市は、弦一郎と喧嘩をしたという話を聞かないな」
 誰がうまいことを言えといった、と突っ込まずにくだらない駄洒落を受け流して話の矛先を変える。
 二人が交際を始めたのは、正式には中学2年の初秋だった。もっともそれまでの長い長い時間をお互い想い合っていて、初恋もまだだった俺達の中で一番最初に恋心に目覚めた二人がいちばん長い時間付き合っているのだから、気持ちを紡いだ年月は計り知れない。
「ない訳じゃないよ。俺真田に殴られたこともあるし、入院中にすごい八つ当たりして真田のこと傷つけたりもした」
「そんなこともあったか。でも部活がらみでならそれこそ俺も交えて三つ巴の言い争いにまで発展したことも何度かあったがだろう。プライベートな事でお前達がいさかいを起こした話しを聞いた記憶がない」
 もう十年以上ぶんにもなるたくさんの記憶を早送りで再生してみても、やっぱりこの二人にはそういう話しはひとつも浮かんでこなかった。
「うん、それはないね」
 精市はあっけらかんと答えた。
「……思い出しもせずに即答か」
「うん、だって本当に喧嘩したことないからさ。俺と真田じゃ喧嘩にならないよ」
 グラスの中でストローを回転させる速度があがる。それは精市が『この話題には触れてくれるな』と思っているときの無意識の仕草だ。
 俺がそれに気付いていることに気付いていない精市は、少しだけ不機嫌そうに目を細めたあと、グラスから引き上げたストローの吸い口を前歯で噛んでいる。興味があったので、もう少しだけ突っ込んでみようという気持ちになった。それはほんのイタズラ心だった。
「喧嘩にならないって、それは確かに弦一郎はお前の事ならなんでも言いなりだからな、パワーバランスの結果だろう」 「ああ、そっか。まだそんな風にみえるんだ、俺達」
 行儀悪くストローでイタズラをする動きが止まった。それから精市は、ゆっくりと俺から視線をそらして窓の外を観た。
「俺にはね、もうあまり時間が残されていないから、一分一秒でも惜しいんだ。喧嘩している無駄な時間なんかないよ。二人でいる時間は一言でも多く言葉を交わして、一秒でも長くふれあっていたい。そこにお互いを傷つけたり罵り合ったりする汚い言葉は必要ないんだ」
「……」
「なんて、ね」
 精市の視線は、窓の外から、自分の左手の薬指へ移動する。弦一郎が買った銀色のリングがはめられているそこへ。
「俺は真田に嫌われるのが怖い。十年以上もつきあって、一緒に暮らして、死ぬまで一緒にいてくれるって約束したのに、それでも不安でたまらない。だから真田が嫌う言葉を使ったり、いやがる態度をとったりしない。多分真田も同じだ。俺に嫌われるのが怖くて、俺を甘やかして、優しくするしかできない。俺達は、何かリアクションをとる前に必ず一瞬、相手のことを考えるんだ。これをしたら嫌われるんじゃないか、こんなことをしたら相手を喜ばせるんじゃないか、いつもそればかり考えている、だから、喧嘩になんか、ならない」
「……それは……」
 言葉に、ならなかった。
 友人から暖かく見守られて、祝福されていた二人はいったい何だったのだろう。誰の目にも幸せに見えた二人の絆は、こんなにも危ういものだったのだろうか。
 精市は『まだ、そんな風に見えるんだ』と言った。『まだ』とは何だ? ならばいつから二人はどこかで変わってしまったというのだ。----あるいは、最初から?
「弦一郎と、その事について、真剣に話し合ったことはないのか?」
「ないよ、これからもこの話しをする気はない。言っただろ、俺達には一分一秒だって惜しいんだって」
「だから……、だが……」
「ふふ、蓮二がそんなに動揺しているところ、久しぶりに観たな。墓場まで持って行くつもりだった秘密を打ち明けた甲斐があるよ」
 精市はふたたび俺と目を合わせて、そして、笑った。
「俺達は今、とても幸せなんだ。だから何の不満もないし、心配しなければいけないことも何一つない」
 曇りひとつない、心からの笑顔だった。
「----じゃ、そろそろ。買い物して帰って夕飯作らないと。真田が帰ってくるから」
「お前は弦一郎の夕飯をこんな早い時間から準備しているのか」
「料理は真田のほうがうまいんだ。というより俺が壊滅的に駄目。だから日がかたむいてからちゃちゃっとやろうとしたら、絶対に失敗する。俺はいい奥さんじゃないから、見えないところでこっそり準備して出来た振りを演じられればそれでいいんだ」
 伝票を掴んで立ち上がる。俺が財布を取り出そうとすると、精市はそれをやんわりと阻止した。
「ここまで来てもらったんだし、今日は俺が払うよ」
 俺の頼まれ事で精市は呼び出されてくれた訳なのだが。
 これは精市からの遠回しの口封じだ。今日話したことは絶対に言うなと。そしてコーヒー一杯で未来永劫精市の心の中の秘密は守られる。
 精市がレジで会計を済ませているのを置いて、一人で先に外に出た。初夏を感じさせる強い日差しに思わず目を伏せる。
 何も聞かなかった、何も見なかった。
 二人はそれで幸せなのだという----本当に?
「精市」
 ポケットに財布をしまいながら店を出てきた精市の腕を掴んで、じんわりと暑い午後から逃げ出すように日陰へ逃げ込んだ。
「なに……?」
「それを、きちんと、弦一郎に渡してくれ」
「ああ、うん。もちろんだよ。本当なら直接渡したいくらい大事なものだって聞いたからね。俺が聞いてもいいかな、これは、何?」
「俺の小学校の頃の、アルバムだ。神奈川に引っ越してくる前の」
「うん」
「約束を果たせなかったと失望されるのが怖くて親友に言えなかった。再会するまでに4年と2ヶ月と15日かかった。後悔ばかりの毎日だった。さよならと、また会えるという約束をしないまま別れてしまったから」
 何故店を出たばかりでまた立ち話をしなければならないのか。それでも思い出がフラッシュバックして衝動を抑えられない。
「いつかお前達にも別れの日が来る。それは順番からいったらお前が先かもしれないし、もしかしたら不慮の事故で弦一郎が先に逝くことになるかもしれない。どちらにしても、残された片方は、伝えきれなかったことを後悔して取り戻せない時間を思い出して泣くんだ、それを、俺は、観たくない」
 感情のおもむくまま、一方的にまくしたてていた。
「忠告ありがとう、蓮二」
 精市は、自分の腕を強く掴んだ俺の手にそっと手を重ねた。
「でもお前は俺達の心中に巻き込まれなくてもいいんだよ」
 じゃあね、と、言って、笑うと、ふわりと身を翻す。あんなに力をいれてひきとめていた筈の腕はあっさり解けて、精市は俺に背を向けると軽やかに駅の改札口とは反対方向のバス乗り場へ向かって歩き出した。
 魔法にかけられたように硬直して、俺はただ視線はその後を追うけれど身体が精市を追いかけようと動きだせなかった。
 その姿が、精市と弦一郎の家の方へ向かうバスの中に消えた瞬間、思考と身体がゆっくりと動き出す。
 ----これはまだ俺が幸村と出会う前の頃のアルバムだ。ラケットより竹刀を握っている時間の方が長かった。
 ----弦一郎にもこんな愛らしい幼少時代があったとは驚いたな。
 あれはいつだ、弦一郎と精市の家に泊まった時だ、精市が先に眠ったあとに二人で飲みながら、何かの拍子に弦一郎の古いアルバムをみつけてそんな話になったんだ。
 ----知らなかったから無邪気だったんだ。幸せを手に入れるためにどれだけの対価が要るか、打算など考えたこともなかったからこんな風に笑っていられた。
 あの時気付いてやれていたら二人は二人で過ごす最後の時間をもっと有意義に使えたかもしれない。剥き出しの感情をぶつけあって、心の赴くままに相手を否定し、理解を求め、話し合い、そして二人ならば必ずどこかで納得のいく結論を導き出してまた寄り添えるはずだった。
 病人扱いされること、先の話しをされること、他人の過去の経験談を持ち出して説得させられること、何もかも精市の逆鱗に触れるはずだったのに、精市は言い返してくるどころか、最後は俺に向き合おうとはしなかった。
 惨めに捨てられた俺は、もう精市と弦一郎の最後に寄り添う権利すらない。
 いっそこの人込みの中、最低だと罵られて殴られた方がましだった。跪いて許しを請おうとしてももう精市はここにはいない。
 俺はお前達がどちらか片方を失って残された片方と、一緒に死んでやっても構わないんだよ。
 だから、どうか。  渡したあのアルバムが、結論を出してしまった精市に効かないのなら、弦一郎の心の引き金をひくきっかけになってはくれないだろうか。
 ----永遠があると信じていられた、遠い昔の話だな。
 なくすことを恐れずに、ありのままの自分で生きていけたあの日は、もう戻らない、戻れないのだけれど。
 何も変わらない日々を望む二人の間で、今更何かが変わることを望むのは酷だろうか。必ず取り残される最後の一人になる自分の傲慢だろうか。
 ふと窓の外から、さっき自分たちが座っていた席を見ると、マスター一人しかいない店は帰った客の席の後片付けまで手がまわっていないのか、まだ空席に余裕があるから放っておかれたのか、二人分のグラスとカップがそのままに残されていた。
 精市の座っていた席に置いてあるアイスティーの入ったグラスは、ストローのみが遊ばれてぐちゃぐちゃになっていることと、氷がすっかり解けてしまっていることを除いて、ただの一口も減っていない。

 それが精市からのSOSのサインだと気付いた時、俺はタクシー乗り場に向かって走り出していた。






指輪を買う話より先に買った指輪が登場しちゃった!
そして暗いシナリオをほのぼの視点で追って行こうという初心をみごとに
バッキバキにたたき壊す鬱まっしぐらな内容。
くわえて予告していた05と06を差し置いて思いつきで
ちょっとSS書いてみちゃいましたみたいないきなり2話すっとばして07。
ちなみに05と06との時間軸はバラバラなので欠番でも大丈夫。




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