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【八月の雨】 「幸村」 耳元で、自分だけにきこえるようにささやかれる小さな声。 電子音と、看護士たちが行き交う足音しか聞こえないこの部屋に、温もりを吹き込むような存在感の彼がやってくる、心待ちにしていた時間。 一般病棟と違い、ここの面会時間は限られている。 午後3時と7時に、それぞれ15分ずつ。 それも本当は家族と身内しか許されていない筈だったが、何故只の同級生の彼がここに自由に出入り出来るのか、まだ意識がはっきりしていて思考回路が働いていたころ幸村は考えたことがある。 ここに移る前----つまり、手術の前から、毎日欠かさず面会に来ていた彼は病院側に身内と認識されているか、それともあの滅多に見せないけれど誰も逆らえない強引さで面会許可のフリーパスを手に入れたか。 (……それとも、もうさいごだから甘やかしてもらっているのかな) 自分で考えた幾つかの選択肢のどれが正解か、幸村はもう問うこともできなかったのだけれど。 「ゆきむら……」 もう一度、名前を呼ばれた。 目を開けなければ。眠っていると勘違いされたら、きっと彼はそのまま黙ってここで14分とちょっとの時間を過ごしてそして帰ってしまう。 僅かな動作すら自由にならない身体の自分をなんとかなだめて、やっとの思いで薄目を開けた。 焦点の合わない視界の向こうに、真田の顔があった。 「起こしてしまったか?」 「……」 「うむ。それならいいが……」 手を握ってほしかった。 前はよく、そう云えば彼は少し照れながらあの大きな手を惜し気も無く差し出してくれた。 真田と唯一、繋がることのできる場所。 「すまない」 「……」 「ああ。元気になったら、ちゃんと『何かできることはないか』と尋くから」 「……」 「わかった……わかったからもう、泣くな」 「……」 「云わなくていい。ちゃんとわかるから。わかるから」 そう云いながら、真田は本当はわかっていない。 幸村が何を伝えようとしているのか。 それでもわかった振りをして、幸村をなだめる。 それが真田にできるたったひとつのことだったから。 「……」 (いきなり泣いたりしてごめんなさい。今日も会いにきてくれてありがとう) 「また明日来る」 「……」 来ないでいい。 こんなに愛されたまま終わってしまったら、真田はきっともうこれから先、一生他の誰のことも愛せなくなってしまう。 早く俺のことなんて忘れて。 そして健康で可愛い恋人を見つけて幸せになれ。 それが一番真田の幸せになるのだと、わかっているのに、諦められないのが辛かった。 行き場のない想いが、真田に届くことのないまま、八月の雨に流されてゆく。 再録にあたり、改題と一部加筆訂正。 幸村の手術は成功して、リハビリも順調にゆき 全国大会で選手として復帰できたので もうこんな悲しいエンディングはみなくていい。 それがどれだけ幸せなことか。 (20050305/20090301) back |